神野新田の澪留の情報

   ▶ 神野新田の澪留(潮止め)の情報1

 神野新田紀事の13章に「堤防を10区に分け、その内の海底が最も深い所3ヶ所を選び、ここを澪留の場所と定め、1ヶ所は延長60間(109m)、他の2ヶ所は延長各25間45.5m)で、澪口は人造石で取り囲み杭や筵を使って左右の防障に充て、澪敷は幅20間(≒36m)として、これに粗朶を蒲で筵状にしたものを布設し、その上に砂礫を詰めた叺、及び石籠を累積する方法をとった。その設計が余りにも簡単だったので澪留が完成するまでの維持が困難だと心配しているものが多かったが、ことごとくその設計を採用することとなった。」とある。


   ▶ 神野新田の澪留(潮止め)の情報2

神野新田紀事の16章に「牟呂に1ヶ所の貝山(貝塚?)があり、この貝

 山に堆積した貝殻を収拾して俵装にした物を土俵の代用に使うこと

 考えた。貝俵は普通に使用する土俵に比べ重量は軽く一人の肩に2

 俵担げるので大に運搬の手間を省けるのと、土俵は海底に入ると波

 涛のために徐々に洗い去られる心配があるが、貝俵なら永く海底に

 留まる利点がある。 つまり、土砂採収と貝俵との二つの利点を使

 い分けることが、実に本工事に適した方法なので、これを利用して

 澪留工事の準備をした。」とある。

ここをクリックで、牟呂の貝塚の説明ページにリンクします


   ▶ 神野新田の澪留(潮止め)の情報3

 ・神野新田紀事の17章には3ヶ所の澪(深さは満潮で約9尺余)には3尺毎に杭を打立てて、

  これに横布を結着して作業の開始を待った」とある。

  (初回澪留は1893年9月16日で満潮の潮位は208cm)

 ・澪の深さ9尺(273cm)なので澪の底は澪部以外の海底から-65cm(朱記の澪部)である。

 ・杭(長さが気になる)は3尺(91cm)毎で、横布を結着とあるが潮流を弱めるためか?


   ▶ 服部長七の澪留(潮止め)の工法が書かれた書籍

・中井錦城 著の「無用の書. 丑の巻」の「服部長七の奇智」に澪留の工法が

 書かれている。

・中井錦城は大正期の新聞記者,随筆家である。

ここをクリックで、著作権切れの該当書籍にリンクします。


   ▶ 上記の工法が書かれた詳細

上の神野新田の澪留情報3とつじつまが合う


   ▶ 神野新田紀事の「澪留の光景」

字幕が出ない場合は、右下の字幕アイコンをクリックしてください


   ▶ 台風13号で破損した澪のすさまじさ

  ・昭和28年9月25日に台風13号で堤防が決壊し新田に浸水した。

  ・4号堤防の決壊口は澪底は干潮面から5mと深くえぐられた。

  ・干満による潮流が10mとなり、破損口と澪を大きくしていった。

  ・明治26年の澪留から60年経過し、澪留経験者がおらず苦労したとある。