干拓工事前

  ▶ 児島湾干拓地の工事前(カメラをクリックすると別窓で画像が出ます)

1区と2区(大正末期)
1区と2区(大正末期)
児島湾
児島湾
6区から北の7区方面
6区から北の7区方面
6区
6区

写真の著作権は、左端はADEAC、他は岡山県立興陽高等学校に有ります・無断使用禁止

  ・左端は1区と2区だけが完成(左から右下にカーブする線がJR宇野線)、沖の児島湾が広い

  ・右側の3つは、工事開始前なので、昭和10年頃に撮影したものと思われる


 ▶ 児島湖の干潟の動画

 ・干拓地に適した干潟ができている状況の動画です。

 ・干潟の関係は 0:33~1:23 に収録されてます。(再生は 0:33 から始まります)


  ▶ 毛利新田ができる前の江戸時代末期の干潟(六条潟)

・六条潟は豊川河口の干潟で、河川からの土砂が冬季の強烈な西風に吹き寄せられて造られた

・赤枠部が青竹新田、富士見新田、毛利新田(神野新田)に位置します

・六条潟は室町時代には記録があり、音羽川・佐奈川・江川・豊川・柳生川・梅田川の六つ条(すじ)の干潟、

 また魚介類が豊富で六畳あれば生活ができるとの言い伝えもある


  ▶ 毛利新田の堤防が作り初めた頃の地図(明治22年11月出版

 ・洲が広く書かれているので干潮時の測量と推測する

 ・北側(広い方)の澪は二十間川の近くと推測できる(こちらに2ヶ所か?)

 ・南側(狭い方)の澪は蛇行した梅田川の河口と推測する(こちらが1ヶ所か?)


  ▶ 毛利新田(神野新田)ができる前

 ・手前の緑部分が青竹新田で、その上の茶色部分は1820年完成の富士見新田です。

 ・富士見新田は左から東/中/西と命名されていたが、大風と高浪によって堤防が決壊し廃した。

 ・その後、富士見新田は復旧され、左から東明治新田、西明治新田、富久縞新田と命名された。

 ・その上の赤い線が神野新田(毛利新田)の輪郭です。


  ▶ 六条潟の干拓の歴史(神野新田は毛利新田と同じ形)

 ・青竹(あおたけ)新田は1770年、豊川河口左岸に前芝村の青木九郎治が開発した。

 ・富士見(ふじみ)新田は1820年、吉田藩が福島献吉を牟呂沖新開惣奉行任命築成した。 

 ・富士見新田は大風と高浪によって堤防が決壊し、西富士見新田は1821年に修復されて富久縞新田となった

 ・中富士見新田・東富士は明治13(1880)年、牟呂村の9人により西明治新田と東明治新田として回復した


  ▶ 六条潟の干拓の推移

江戸から明治の順方向

明治から江戸への遡り方向



  ▶ 毛利新田ができる前後の干潟の状況(干潟が広がっていた)


  ▶ 最近の神野新田沖の干潟(今も成長してます)

  ・明治20年頃に明治新田の堤防からは、こんな感じで広い干潟が見えてたのでしょう

  ・最近は豊川上流にできたダムにより上流からの砂が減り、干潟の成長が遅い様


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